2013年1月22日火曜日

■どんぐり倶楽部のスタンス(文責:どんぐり倶楽部)

●幼児・児童期に余計なことをさせている時間は一切ない。

●「ゆっくり、ジックリ、丁寧に」日常生活を楽しむことでのみ、いつまでも伸び続ける「本当の学力・絶対学力」を育てることができる。
 偶然教育(確かな教育理論のもとに考えだされたわけではない、行き当たりばったりの教育方法)は全く通用しない時代になっている。
 昔は、偶然教育をしていても自然(遊びや子供自身の工夫)が、思考力養成をしてくれる場合があったので、健全に成長する子供もいたが、現代では非常に稀である。

●一生役立つ本当の学力を育てるために必要な「無理なく無駄なく効果的な学習」を可能とする基盤

●教育環境が悪ければ悪いほど、させる教育と同様に「させない教育」が重要な課題となってくる。
 現代は、この「させない教育」の効果と影響を知らなければ子育ても教育も表面的な絵空事になる。

●現代の様に、自然や日常生活が、思考力養成の機会を用意することが困難な状況である教育破綻環境の21世紀に、
「取り敢えずサセル」
「何でもいいからサセル」
「何となくサセル」
「本人がしたいって言うからサセル」
「皆がしているからサセル」
「うちは放任主義だから、勝手にサセル」
は、一切通用しない。

現実に、全て失敗している。
成功は全て偶然の力頼みである。

●要注意対象は、学校・塾・教科書準拠学習・習い事・宿題(特にお粗末3点セット)・TVゲーム&読書&ネット(仮想現実で時間を過ごす状態:小説でも同様)
⇒ 幼児・児童期の高速・大量・反復学習は全て厳禁

●幼児・児童期の英語学習は、演歌と思えば許せる範囲だが、英語育児は「古語育児」と同じであり、現代日本人としての成長にズレを生じさせる。
 健全な成長を阻害する。平安時代の言葉で子育てをしている状態を考えれば理解しやすいだろう。
 何のプラスもない。マイナスは計り知れない。
 修正の効かない根本的な感覚のズレを生じる。
 一生利用する「入力→反応」の部分が現代とズレてしまう。

<例>
「スッゲェ」 →「いとよろし」
→*混乱+定着=感覚のズレ=不安定=自信喪失=入力困難=自己確立不能

「暇に任せて」→「つれづれなるままに」
→*混乱+定着=感覚のズレ=不安定=自信喪失=入力困難=自己確立不能

●物心がついた後(思考のデータベースが出来る9才前後)で、存在に気づかせ、12才以降に理論的に修得させる。
 基本文をマスターした後で、状況別に(シチュエーション別)大量反復でデータベースを一気に増加させる。
*発音矯正は、この時に行う。
 発音は、ある程度の単語量がないと効果が薄い。
 逆にある程度の量があると自動類推作用が働くので、フォニックスを使える。
 接頭語、接尾語などの意味・機能からの単語力補強も可能になる。
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*ここで、英語の話をしたので思い出した...え〜〜〜っと。あった。
「絶対学力」についての書評ですが、コメントを書いておいたのがあったので。一部引用します。
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●本って、全部は書けないからなぁ。読めない人が読むと、勝手に繋げちゃうんだなぁ。
随分前の記事なので使わせて頂きます。
●が私の追加文章です。
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http://www.10days.org/diary/20060129.html
十日日記
2006-01-29
思い込みの激しい本
最近読んだ本に、糸山泰造『新・絶対学力』(文春ネスコ、2004年)がある。先に言っておくと、同書はよい本だ。著者は文章を図解してイメージで考えることを「視考力」と名づけ、算数の文章題を図に表現する訓練をさせるための魅力的な問題を用意している。四谷大塚準拠塾で小4に算数を教えていた大学1年のころ、とにかく線分図が描けるようにさえすればよいと指導されたものだ。
●最初の1行から怪しい。線分図は(応用が効かない上に感情再現ができない)最低の絵図なので、極力使わせないのが、どんぐり倶楽部なんですよ。塾で線分図っていうのは教える方に都合がいいからだけであって、本当の学力養成には不向きなんです。

気になるのは、著者が思考と計算とを簡単に二分してしまっている点だ。著者は筆算ができればそれでいいという。これは遠山啓の水道方式以来の方針で、基本的には間違っていないと思う。
●ふ〜ん。初耳です。

しかし実際には、計算問題であっても思考停止に陥ると非効率的になる。このことを明確に意識したのは微分幾何を習っているときで、式や図形の性質から想像できそうな結論に向かって式をデッチアゲるような感覚だった。積分の膨大な計算を機械的に書いていくと、かえって誤る。
算数のレベルでいうと、たとえば21.4×4.9の計算で、まずは20×5で約100になるという数的感覚がほしい。この感覚があれば、小数点を打ち間違えて104.86が10.486になっても変だと気づく。割合の文章題でも、12×0.35と式が立ったのち機械的に筆算するのではなく、半分よりも少ないという感覚を身につけるべきだと思う。それには著者推奨の図解も役に立つことだろう。図にしてみれば、半分よりも少ないことが一目瞭然だ。小学校の算数はときどきしか見ないが、最近の小学生は筆算マシーンになっているのではないかと私は危惧している。2300×90のような計算は23×9のあとに0を3つ加えたものだが、いまの小学校では馬鹿正直に筆算で計算するようだ。あるいはまた194×105のような計算で、

194
×105
----------
970
000
194
----------
20370

のように途中で0を3つ重ねる小学生がいて驚いた。
●筆算マシー...全く見当違いの分析ですが...。唖然。まず、計算問題などさせない。

著者のホームグラウンドは算数のようで、
●元々は英語なんですよ。しかも、高校受験。で、国語が得意。理科は完璧。数学も教え上手。5科目全部教えていました。中3だけの個人受験塾OneZemiでは高校受験は半年〜1年で3年間分5科目仕上げていました。

この科目については基本的には賛同できる内容だ。ところが国語や英語など言語系の科目になると、疑問点や矛盾に思える箇所が増える。

たとえば著者は、「表現力の養成は早くても高校から」(p.76)とし、小学校で表現力を磨くことは不要だという。
しかし、著者が推奨する文章題の図解は表現以外の何ものでもない。
●ここで、気づいて欲しかったなぁ。「表現力養成」という名目で、表現力を弱らせているからせっかく書いたのになぁ。無理なく無駄なく効果的な表現力養成は、感じること味わうこと+視考力養成って決まってるからね。

なにしろ自身で「問題解決学習とは、言ってみれば『文章を絵図で表現する練習』」(p.44)と述べているくらいだ。私自身は国語においても図解を積極的に取り入れたほうがいいと考えているし、逆に図から文章を組み立てるような――つまり文章構造を意識した作文訓練も行なうべきだと思う。実際に表現してみてこそ、筆者の表現の工夫を感じとることができる。
●だから、それを、小学生にさせたら、筆者の表現(他人の表現)を真似させる事になってしまうからね。大人ウケする作文を書く小賢しい大人びた子供が出来るんだよなぁ。

英語も同様だ。著者は英文和訳を否定し「語順訳」を提唱している。これ自体は平凡なものだ。
●これも甘い、世に出ているものでは語句順訳は完成していない。接続詞や関係代名詞を訳し下せない。ところが、どんぐり倶楽部(OneZemiの英文法)では完成しているから出来る。だから、資料で、わざと関係代名詞を入れて、語句順訳している。まあ、気づいていないんだろうね。
完成したものがないから導入されていない。だから、学校できちんと教えてくれない。語句順訳で入ると英語が苦手な子はいなくなるのにね。

驚くべきはここからで、英語の勉強では英語で考えることが重要なのではないという。
●そう、英語は英語的に日本語で考える。更に、日本での学習法に関しては、これは、環境と制限時間を考えての話だ。英語で人間を育てるわけではないし、思考力養成をするわけでもないのだから、ここは、効率的にするべきところだからね。時間が無限にあれば、直リンクで結構ですよ。悪くはない。でも、体験を通してリンクさせるわけではないので「ニセモノリンク」になるからお薦めはしないけどね。だから、目指すならバイリンガルじゃなくてセミリンガルがいいんだよね。九九で8*3=24を覚えなくても、3*8=24を知っていれば覚えなくていいのと同じ。暗誦テストの時には「ハチサンニジュウシ」と言いながら「サンパジュウシ」で24を出せばいい。

「英語を理解できる日本語脳」を鍛えるべきであり、そうすると「何語でも日本語を介して使いこなせるようになる」(p.131)のだそうだ。不思議ではないか。視考力が最速かつ最も基礎的なものなら、日本語など介せず英語もイメージでとらえれば済む話だ。
●本当に半端な考えしかできないなぁ。時間と環境の問題なんです。人間形成をするのに時間を割かなければならない時期の英語学習ですからね。
 新しい言葉を直リンクさせるには
<A:音+視覚イメージ→無意識化→英語の音=視覚イメージ>
<B:音+視覚イメージ→無意識化→英語の音=視覚イメージ>
<C:音+視覚イメージ→無意識化→英語の音=視覚イメージ>
 この無意識化に時間がかかるのだよ。特に日本ではひ所に難しい。もちろんできるが、費用対効果を考えると、ナンセンス。
*日本語を仲介すると、日本語と視覚イメージは既にリンクされデータベース化(蒸し器再現可能な状態に)されているので
<A:音→日本語の音=視覚イメージ>
<B:音→日本語の音=視覚イメージ>
<C:音→日本語の音=視覚イメージ>
となり、新たな<→無意識化→英語の音=視覚イメージ>が不要になる。
つまり、実際にすることは、音変換だけで良くなる。これは、動画と音声のデータ料の違いほどの差が出る。エネルギー消費量が全く違うのだ。桁違いである。何百倍何千倍の差である。
<A:英語←音→日本語>
<B:英語←音→日本語>
<C:英語←音→日本語>

著者自身が次のように述べている――「頭のいい人がどんな言語で考えても頭がいいのは、語学力があるからではなく、イメージ力があるから」、「イメージで理解しているのに、文字や言葉そのもので理解していると勘違い」(p.42)。日本語はイメージで理解せよと言っておきながら、英語は日本語を介せという。
●基本リンクを全て最初から変えるのは不利(特に日本にいる一般的な中学生にとって)だからですよ。既に持っているものを活用する。
また、本当の意味で直結させるにはネイティブな語感まで含めた連携が必要だが日本では殆ど不可能。母国語を介するほうが理にかなっている。さらに、英語を使う必要に迫られ、ある程度学習が進み、語彙要が一定量を超えれば自動的にモード変換(英語-映像の直リンク)するようになる。一律に最初から、ってのは空論。環境(生活環境を含めた教育環境)によりけりなのだよ。フォニックスについても同様である。日本の環境を考えると導入期に入れるべきものではない。学習ではなく、音楽としてなら、いいですが、ワザワザ貴重な時間とお金を使って、思考力養成時期に演歌を教えなくてもいいでしょうと思う。

この発想が私にはわからない。
●まあ、その程度の考えでは、何も分からないのは当然です。

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